映画 tokyoタクシー
パリタクシーのリメイクで筋はわかっているから面白くないだろう、その上ミスキャストしていそうと思ってあまり期待しないで見に行った。一般に俳優さんは若くて元気な姿を観客に見せて観客が自分も元気にやっていこうという「元気を売る」お仕事である。観客は「元気をもらう」ほうである。しかしこの映画の主役は人生の最終盤の設定であるから、元気そうでまだまだ美しいという姿を見せてはいけないのである。普段とは全く逆の老け役をやらねばいけない。そうしないと映画に現実感がでない。それでもドライバーにほのかな恋心を抱くように演技するのだから相当の難易度である。演技はうまいのだけど美しくて元気な女優さんでありすぎる気がする。ドライバーは貧乏のにおいがプンプンする人でないといけないのに上品な男前でここもミスキャストである気がする。
しかし観客はややご高齢の女性が多い、主役がドライバーにほのかな恋心を見せドライバーがそれにこたえる場面で乗り出して画面を凝視する。映画演劇小説は生きられたかもしれない(またはこれから生きられるかもしれない)別の人生をその中に見ることである。そこに自分の人生を重ねて何事かの思いを持って、それが人生の見直しになったり、もっとうまく生きるための知恵になったり、緊張が解けて気持ちが楽になったりするものである。私はこの恋心の場面が見せ場であることに驚いた。この映画の製作者は初めからそれを意図していたのだろう。その意味ではミスキャストでは全くない。そういう趣旨なら美人と男前でないといけないであろう。そのつもりで見るなら、この映画は成功である。
わたしは、富貴を得てもなお人が直面するぞーとするような孤独という意味でこの映画を見たがそれはたぶん多くの人とは異なる見方であろう。
わたしなら若いころの主人公の苦労をもっとありきたりのもの平凡なものに描き、事業に成功した後の老いの孤独をもっと執拗に描くところである。そうすればほのかな恋心がもっと生き生きしてくるはずである。フランスのパリタクシーではこのほのかな恋心がほとんど無視されていたからその意味ではtokyoタクシーの方が一枚以上上を行った良い作品といえる。
ただし日本映画は脇役(司法書士を除く)が全く駄目である。われわれは主役の華を見て、脇役の渋みを見てさらに自分の人生の棚卸をしてやっと満足するものである。渋みの全くない映画であった。カメラやライティングは素晴らしくてフランス映画に負けないのにそこが残念である。